2020年9月7日月曜日

吹田市の軽便鉄道について

この記事は道路元標調査の副産物としてできた記事である。 

先日、道路元標の調査のために今昔マップで吹田市を見ているとふと1本の線路記号に気づいた。

図1 2万5000分1吹田および大阪島北部 昭和4年修正、同7年発行 
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成

国鉄吹田駅前から神崎川岸までのびる軽便鉄道記号。
わかりやすいように赤で示すと以下の通りだ。
図2 上記地図に赤書き込み
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)に赤記入


この軽便鉄道は時に路線名は記されてなく、今尾先生の『日本鉄道旅行地図帳』にも線は引いてあるものの路線データは特に記されていなかった。

この時点では何だろうこれと思いつつ特にそれ以上調べることはなかった。しかし本日(20.9.7)吹田市史を読んでいたところこの鉄道についての記述があった。

 「なお、北大阪電気鉄道の西吹田駅の西方でこの線路と直交する別の線路は神崎川の新田浜まで通じる麦酒会社の製品搬出用の軽便鉄道であり、その交差地点付近にも麦酒会社関係の家屋の密集が見られる。」(吹田市史第一巻p60)

どうやらこの軽便鉄道はアサヒビールの前身にあたる大阪麦酒株式会社、そして合併後の大日本麦酒株式会社がビールの出荷用に用いていたようだ。

明治44年測図の地図には記されていないが大正12年測図の地図には載っている。
そして昭和4年修正の地図には載っているが昭和22修正年の地図ではもうない。
その後は国鉄吹田駅から延びた専用線を用いて出荷していたようである。

吹田駅から延びた専用線についてはトワイライトゾ~ンマニュアルに掲載されている専用線一覧表で実体を知ることができる。
『トワイライトゾ~ンマニュアル10』に掲載の大正12年の全国専用線一覧表には掲載されてないが、『トワイライトゾ~ンマニュアル11』に掲載の昭和5年の全国専用線一覧表には掲載されている。吹田駅からの専用線がある上で専用軌道を維持する理由は思い当たらないため昭和4年末から昭和5年頭頃廃止になったと考えられる。
ちなみに吹田駅から延びた専用線は距離0.1キロメートルで入れ替え方式は手押しだった。
しかしいつの日かこの専用線は廃止になり、現在は吹田貨物ターミナルまでトラック輸送をしている。

なお、2018年7月24日付の流通ニュースにこんな記事があった

現在調べがついているのはここまでだが、今後さらに調査をしていきたいと思う。また、何か知っていることがあったら是非教えていただきたい次第である。


参考文献

今尾恵介(2009)『日本鉄道旅行地図帳 10号 大阪』p21

吹田市史編さん委員会(1990)『吹田市史 第1巻』p60

名取紀之・滝澤隆久編(2001)『トワイライトゾ~ンマニュアル10』

名取紀之・滝澤隆久編(2002)『トワイライトゾ~ンマニュアル11』

本記事で用いた地図は全て、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。


更新履歴:

20.9.8:『トワイライトゾ~ンマニュアル』をもとにした記述を追加

6 件のコメント:

  1. 初めまして!
    あの道路は軽便鉄道の跡だったんですか!
    これで南吹田に残る橋の跡らしい石垣の正体が腑に落ちました。
    跨線橋だったんですね。
    南吹田一帯はかつては泉殿宮の領地だと聞いたので、その年貢米等を運ぶための水路かなと思っていたのですが、それでは石垣の「高さ」が納得いかないでいました。
    これですっきりしました!
    貴重な情報をありがとうございます!

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    1. コメントありがとうございます。
      跨線橋の跡なんて残っているんですね!じつはブログ記事にはしたものの現地に行ってないのです・・・
      今度見に行ってみます!

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  2. コメントから失礼します。
    全然関係ないのですが、前に呟かれていた岡本村道路元標の件は、下記のようなことが書いてありました。

    戸籍や登記簿等々、昔の公文書はすごく癖がありますよね、、、
    同じ人が書いたものを見比べると、たまに見やすいものがあってそこから推測できたりするので、見比べるといいかもしれません!

    庶務掛
    松浦□□□
    岡本村元標ヨリ富水村郡界ニ至ル(?)里程取調
    方岡本村役場ヘ申入票
    其村元標ヨリ富水村郡界迄ノ(長橋□□□)里程承知致度候
    條取調ノ上□□□□回報可相成此□申入候也
    明治三十三年二月廿四日 廰名
    岡本村役場御中

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    1. ありがとうございます!
      里程元標から郡界までの里程(距離)の調べて改定したからよろしくみたいな内容ですかね・・・?

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    2. 該当の次の次くらいのマイクロフィルムに岡本村から里程の報告の文書も残っていたので、

      「岡本村元標より富水村(の足柄下郡)郡界迄の里程を承知したいので(條)、取調の上報告するようお願いします」

      みたいな感じかと思います!

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  3. はじめまして。
    この軽便鉄道について、長い間、疑問に思っていましたが、最近、ようやく全容が掴めました。
    アサヒビールの社史「ASAHI 100」に詳細に紹介されています。120周年にも社史が発刊されていますが、そちらにはこの軽便鉄道の記述はありせん。
    元々、朝日麦酒㈱吹田醸造所がこの地に建設された理由は、ビールの醸造に適した水が得られたことと鉄道があったからです。
    しかし、鉄道が本格的にビール輸送に活用されるのは、もう少し先のことになります。
    明治の創業から大正半ばの1920年ごろまで「アサヒビール」の製品、原料、資材の運搬には水運が圧倒的に優位であったと社史には記されています。ちなみに吹田醸造所の場内のトロッコが吹田駅の貨物ホームに直結したのが大正6(1917)年、広大な貨物列車の操車場が完成したのは大正12(1923)年のことです。
    大阪市内にビアホールが開設され、ビールの消費量が増えはじめ、大消費地・大阪へのビールの輸送が課題となりました。目の前に鉄道があるのですが、遠隔地に大量に商品を送るには鉄道はメリットがあるものの、近距離では積替え等の手間が生じ、輸送コストが割高となります。しかも、貨物自動車での運搬が普及する前のことでした。
    そこで当時、これを打開する方法として、大正12年に軽便鉄道が神崎川浜まで敷かれ、そこから水運による運搬がはじまりました。
    この軽便鉄道で吹田醸造所から神崎川新田浜倉庫に運び、そこではしけに積替え、水運を利用、大阪湾に一旦出た後、川を北上し、堀江川(堀江倉庫へ)、横堀川(横掘倉庫へ)、堂島川(梅田倉庫へ)運ばれており、主に大阪市内での消費に対応したものだったようです。軽便鉄道の動力は牛だったと社史に記されています。暑い夏には、牛にビールを飲ませた、という記述が社史にありました。当時は、今年の夏ほど、暑くはなかったかと思いますが、ビールを飲みながら、牛がビールを引いていたのですね。
    当時の横堀倉庫の写真がアサヒビールの沿革を紹介するHPと社史に掲載されていますが、倉庫前で大八車に高く積まれたビールの木箱と大八車を引く人夫の姿が写っています。当時、市内での運搬は荷車、それも人力でおこなわれていたことが伺えます。
    昭和11年に産業道路(現在の府道高槻京都線)が建設されることとなり、軽便鉄道の一部がこの道路用地となったこと、また、このころには貨物自動車による運搬コストも下がったことから、軽便鉄道+水運を利用してのビール輸送は終わりました。
    この軽便鉄道は大正10年に開業した北大阪電気鉄道とは平面交差しており、この平面交差部分を走る北大阪電気鉄道の写真が社史に掲載されています。
    『トワイライトゾ~ンマニュアル』10(2001/10)には大正12年版全国専用線一覧、『トワイライトゾ~ンマニュアル』11(2002/9)には昭和5年版全国専用線一覧が掲載されていますが、アサヒビール㈱軽便鉄道はどちらにも掲載されていません。これは専用鉄道規程(大正8)「第一条2.公衆の用に供する鉄道又は軌道と連絡するもの。但し、人力又は場力を動力とするものを除く。」に該当するため、掲載されていないものと思われます。

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この記事は道路元標調査の副産物としてできた記事である。  先日、道路元標の調査のために今昔マップで吹田市を見ているとふと1本の線路記号に気づいた。 図1 2万5000分1吹田および大阪島北部 昭和4年修正、同7年発行  時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(...