2019年5月27日月曜日

オーストラリアの基準点

私は2019年2月に約一周間、オーストラリアに旅行に行ってきた。その際に訪れたシドニーにて偶然に基準点を発見した。

私は元来ミリタリー趣味、特に軍艦を見るのが好きなので日本国内にはほとんどない分海外旅行の際には現地で保存されている軍艦を見るのを楽しみにしている。シドニーでもオーストラリア国立海洋博物館で保存されている駆逐艦ヴァンパイヤをいの一番に見に行ったのである。
駆逐艦ヴァンパイヤ

駆逐艦ヴァンパイヤは船内のほとんどの場所が公開されていて、自由に見ることができた。艦橋ももちろん公開されていてたのだが、私はここで発見をした。そう、シドニー近海の海図が展示してあったのである。
海図は世界中の船乗りが使うため地図記号などは世界共通規格となっている。そして、ふとシドニー中心部を見てみると、なんと三角点の地図記号が載っていた。
ハーバーブリッジの付け根のあたり。Google mapsで調べてみるとそこにはシドニー天文台があることがわかった。天文台の近くにある三角点ということは重要なものの可能性が高い。
ということで海洋博物館周辺を観光したのち見に行くことにした。

シドニー天文台。屋根の上には報時球が今も残る。なお使われているかは不明。


シドニー天文台の裏庭にて発見
このジェンガのように石を積んだものが三角点である。

側面には「Old trigonometrical survey mark」とある。意訳すると古い三角点。。軍艦の地図も最新のものではなかったため現在も用いられているかどうかは不明である。



帰国後にインターネットを用いて調べてみたところ、この基準点は天文台の屋上にある基準点の引照点のと見られるまた、ニューサウスウェールズ州の経緯度原点でもあったようだ。
あるHP曰く設置時の緯度経度は33° 50’55” S 151° 12’4” Eとある。現在の座標は33°51'34.8"S 151°12'17.0"E(Google mapsで測定)。この若干の誤差はオーストリラリア測地系と世界測地系の差なのか。


また、すぐ裏手の白いピラミッドみたいな木組みのなかには子午線標が置かれている。






2019年5月5日日曜日

道路元標と私の研究方針について

ここでは2019年5月5日現在の私の方針について述べる。今後方針転換があれば適宜修正していく予定である。


道路元標とは
道路元標は大正8年(1919年)の旧道路法の関連法である道路法施行令によって規定されるものである。日本全国各市町村に一つずつその市町村の道路の原点として設置されたものであり、市町村道のの距離程を測る時などに用いられた。当時存在していた1万を越える市町村に須らく設置されたとされる。(武部2015)

形状については大正11年(1922年)の内務省令によって規定され、縦横25㎝で高さ60cmで上面はかまぼこ型にするとされる。前面(妻側)には○○市町村道路元標と刻む。
その後1952年の現行道路法施行によって道路元標の起終点としての役割も終え、維持する根拠法を失った道路元標は急速に失われていくことになる。現在の残存数は2000弱と言われている(佐藤2014)。
標準的な形状の道路元標 兵庫県尼崎市、大庄村道路元標

道路元標研究は趣味で行っている方が多く存在し、主なものでも以下の4方のものがある。

国道901さんの

穴蔵さんの

TTSさんの

池澤重幸さんの

これらのHPの研究成果は素晴らしいものであり、もはや私がわざわざ研究と銘打って何かやることはあまりないようにも見える。しかし道路元標研究には一つ大きな落とし穴がある。
それは文献にまとめられているものが極めて少ないという問題だ。いうまでもなくネット上の情報は脆弱であり、いつ失われるかわからない。また学術的に認められないため資料として引用しづらいという問題もある。

現在確認できる文献は地誌として限られた範囲を扱ったものと道路や石碑などを扱った書籍の中で多少触れられてるに分けられる。地誌として扱ったものは日本全国すべての地域であるわけではないため結局網羅率に難がある。文献中に多少触れられているものについては当然記述量に限りがあるため満足いくものではない。

現在確認できている文献は以下である。なお日本橋の日本国道路元標のみ触れている文献はいくらでも存在するがここでは割愛する。

地誌(県レベル)
今泉明正(2015)『福島県の道路元標―里程元標・一里塚』歴史春秋社 ●
上田倖弘(2000)『「道路元標」を尋ねて』弘道社 ※奈良県 ●
内山謙治(2004)『道のしるべー失われゆく街道の遺産「道路元標」のゆくえ』私家版 ※栃木県 □
藤原勝永(2002)『兵庫県の道路元標』神戸新聞出版センター 〇

地誌(市町村レベル)
若林泰(1958)『宝塚の道路元標』地方史研究35巻1号 ●
荒木勉(2008)『尼崎の道標を訪ね歩く』●
吉川町教育委員会(1999)『ふるさとよかわ第9号 吉川の道標』p73●
高砂市教育委員会(1998)『ふるさとの文化財冊子2 高砂の道標』p38-43●
明石市文化・スポーツ部文化振興課文化財係(2015)『あかし文化遺産』p70-73●
田村昭治、波毛康宏(1985)『淡路島の道標』p135-138●
藤本百男(2016)『ふるさと加東の歴史再発見シリーズ Ⅲふるさと加東の道標・道路元標
─ 道標からふるさとの「道」の歴史を考える ─』p1-6● pdf

触れられている文献
伊東宗裕(2004)『京都石碑探偵』p57-69●
佐藤健太郎(2013)『あの道この路(4)道路元標(どうろげんぴょう)を訪ねて : 街角に残る小さな史跡たち』道路 : road engineering & management review (868) p44-47
佐藤健太郎(2014)『ふしぎな国道』講談社 p214-224 ●
武部健一(2015)『道路の日本史ー古代駅路から高速道路へー』中公新書 p164-170 ●


よって、私の目標は道路元標を扱った学術的な文章および文献の作成にある。
また、佐藤(2014)でも指摘されている通り道路元標の設置位置は何種類かに分けられることが分かっている。これについては私は分類パターンの提案を当ブログの道路元標の立地を類型化という記事内で行っている。さらに若林(1958)では道路元標の形にも地域的な傾向があることが指摘されている。こういった道路元標一個一個の情報を収集し面的に把握・分析することは地理を専門に扱った私独自の視点となりうるのではないかなと考えている。

そして、これらの活動によって道路元標の知名度が少しでも上がれば僥倖である。


また、道路元標の文献資料についての情報は常時募集しています。何かありましたら私のツイッターかブログのコメント欄にお願いします。


文献一覧の記号
●:入手済(当該ページのみのコピーも含む)
□:未入手未確認

2019/11/24 文献一覧更新(吉川、高砂、明石)
2020/9/13 文献一覧更新(加東)








2019年5月4日土曜日

和歌山県御坊市の道路元標

和歌山県御坊市には道路元標が設置された大正九年時点で
日高郡御坊町、同湯川村、藤田村、野口村、名田村、塩屋村

の1町5村が置かれていた。

このうち現在も道路元標が残されているのは藤田村のみである。



日高郡藤田村道路元標

告示場所

資料未入手

現在設置場所

和歌山県御坊市藤田町藤井2077

専念寺角

状態
現存

立地形態
1.役場前型

不確定、要調査

石の形状は大正十一年の告示(上田1990)とは異なり四方面取り型で背面側面に文字無し





今回、この道路元標の写真を元に3Dデータを作成した。



画像が足りなかったのか裏面は不完全になってしまったがおよそ成功したといっていいと思う。
使用ソフトはAutodesk Recap Photoです。


吹田市の軽便鉄道について

この記事は道路元標調査の副産物としてできた記事である。  先日、道路元標の調査のために今昔マップで吹田市を見ているとふと1本の線路記号に気づいた。 図1 2万5000分1吹田および大阪島北部 昭和4年修正、同7年発行  時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(...